LOGINキックオフを終えて、次の週からプロジェクトは本格始動した。
週に一度、プロジェクトメンバーが揃って進捗状況の確認を行う会議があった。本当は定例会議だけで事足りるにもかかわらず、有馬が「近くまで来ましたので」と紡を訪ねてくる日が増えていった。気づけば週に一度の定例会議とは名ばかりで、有馬とはほぼ毎日のように顔を合わせている。
「あの……有馬さん」
「なんでしょう」
「そんなに頻繁に来ていただかなくても……」
別に有馬を拒んでいるわけではない。むしろ本心を言えば、毎日でも会いたい。けれど、オンラインで打ち合わせをすれば済む話だ。「出かけたついでに」とはいえ、毎回足を運んでもらうのは申し訳なくて、落ち着かなかった。
もしかしたらそれは口実で、わざわざトキワ文具まで来てくれているのかもしれない。有馬なら、やりかねない。
「いえ、何度も申し上げますが、外出したついでに御社にお伺いしているだけですので」
「本当……ですか?」
高校時代のように「本当か?」と聞きそうになって、慌てて言い直した。
その不器用な訂正に気づいたのか、有馬がふ、と顔を綻ばせた。
「心配すんなって。本当だから」
敬語の薄皮が、ふいに剥がれ落ちた声だった。スッと手が紡の顔の前まで伸びてきて、けれど有馬は、はっと目を見開いて、さっと手を引っ込めた。
「えっと、先ほどの続きをお伝えしますね」
そう言って、有馬はパソコンの画面に目を逃がした。
いまのは、なんだったんだろう。もしかして、俺に触ろうとしていた? そうだったらいいのに……。
まさか、と紡は小さく頭を振って、邪な考えを自分のなかから追いだした。
「あの、今度は私が、セントラル・アドさんにお伺いしてもいいですか?」
説明が一段落したころ合いを見計らって、紡は尋ねた。
「ええ、もちろんです」
「よかった。では、来週にでもお伺いします」
こうして、週に一度の全体会議のほかに、有馬とふたりで打ち合わせをする習慣ができた。お互いの会社を行き来する。紡の手帳には「セントラル・アド」の文字が、これまでにない頻度で踊っていた。
有馬はとても優秀だった。高校時代は、すこしだらしないところもあったのに、社会人として働く有馬は、会議のファシリテーション、アジェンダの整理、提案資料の構成、どれをとっても隙がない。
アメリカで身につけたものなのだろうか。聞いたところによると、あちらの大学は入学は比較的容易でも、卒業は大変だという。日本の大学とは、ちょうど逆。卒業までの時間や課題を、すべて自分で管理しなければならなかった経験が、いまの仕事ぶりにも生きているのかもしれない。
セントラル・アドに初めて訪問した日、有馬はうれしそうに紡を迎え入れてくれた。
「わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
「そんな……。有馬さんも、いつもうちに来てくださっているじゃないですか」
外行きの挨拶を交わすと、紡は会議室へ通された。そこには、セントラル・アドのプロジェクトメンバーが揃っていた。
「せっかくだから、みんな呼んでおきました」
有馬のチームは連携がよく取れているようで、有馬がひとつ声をかけると、いくつものアイデアが返ってくる。それを受けて、有馬はパソコンに素早く打ち込んだり、手元の紙にペンで書き留めたりと忙しい。
紡は、有馬の右手の動きから目が離せなくなっていた。長く細い指が、軽くペンを握っている。それだけで美しく見えてしまうことに、紡は自分でもすこし戸惑った。紙の上を滑るペン先を、知らないあいだに目で追っている。気づいた瞬間、紡はそっと手元の資料に視線を落とした。
次の週、紡は再びセントラル・アドを訪れた。今回は全体会議ではなかったので、有馬は紡を小会議室に案内した。
ふたりしかいない会議室。トキワ文具でふたりきりで打ち合わせをしたときは、それほど緊張しなかったのに、なぜか体がこわばった。きっと、慣れない場所にいるからだ。そう自分に言い聞かせる。蛍光灯の白い光が、なんだか冷たく感じた。
けれど打ち合わせは、紡が不安になる暇もないほどスムーズに進んでいった。有馬が説明し、不明な点を紡が質問する。会話のラリーが続いた。
ふと、会話が途切れたとき、ふたり同時にコーヒーに口をつけた。その瞬間、目が合って、どちらからともなく笑った。
なんだか、高校のころを思いだす。有馬はよく、紡と同じタイミングでなにかをすることが多かった。そのたびに「なんだよ」と言いながら、ふたりで笑ったものだ。
――こんなことを思いだしているのは、たぶん、俺だけなんだろうな。
そう考えると、胸の奥に、ひっそりと寂しさが滲んだ。
ふたりきりで仕事をしていると、紡はつい、有馬をじっと見つめてしまう。
いつもは仕事用の顔をしているのに、たまにのぞかせる昔の顔が、懐かしくて目が離せなくなる。
頬杖をつく角度、頷くときの眉の動き、笑うときの目尻。どれも昔のままだった。記憶のなかの有馬の表情が、いまの有馬とそっと重なるたびに、胸の奥がかすかに軋む。けれど紡は、それを見て見ぬふりをした。気づいたところで、十年前のあの夕焼けの下校路に、戻れるわけでもない。
十一月に入った。日に日に、陽の長さは短くなっていく。夕方の四時を過ぎると、夕陽の色をした光が、会議室の窓から低く差し込んでくる。
その日はトキワ文具の小会議室で、有馬と打ち合わせをしていた。有馬は窓を背に座っていた。
ふと顔を上げると、紡の視界に傾いた西陽が長く伸びていた。光は有馬の肩を掠めて、机の上に細い影を落としている。資料に視線を戻そうとしたのに、紡は有馬の肩から目が離せなかった。
――十年前、ふたりで歩いた下校路の、あの夕陽の色に、そっくりだった。
半歩前を歩いていた有馬の背中。リュックを揺らす肩のリズム。夕焼けに染まった交差点の景色が、なぜか目の奥で、もう一度静かに立ち上がってくる。
打ち合わせが終わり、紡は資料を整理して帰る準備をはじめた。有馬も机の上に散らかった資料をまとめはじめる。
「紡」
有馬が、紡を呼んだ。
鼓膜を震わせた、その響きを、紡の頭は一瞬、理解できなかった。
「……え?」
思わず、有馬のほうを振り返る。
いま、本当に自分の名を呼んだのか。それが、知りたかった。たった一音。けれど、敬語の外側で、それだけが空気を揺らした。
もしかしたら、言い間違いかもしれない。紡の手は、書類の途中で止まっていた。
「――失礼。白瀬さん、この件について――」
有馬は目を伏せて、何事もなかったかのように、業務の声に戻った。
つい口が滑ったのか。昔の癖で、出てきただけかもしれない。
紡も聞かなかったふりをして、資料に目を落とした。
けれど耳の奥には、「紡」という、たったそれだけが、まだ静かに、刻まれていた。
その日の帰り、紡は電車に揺られながら、ずっと落ち着かなかった。
有馬から、「紡」と呼ばれた。たったそれだけのことなのに、気持ちが浮ついて、ふわふわしている。何度も頭のなかで、有馬の声で「紡」と繰り返された。
まるで、十年分の距離が、そこだけ、すとんと抜け落ちたみたいだった。
紡は電車の窓に映る自分の顔を、すこし長めに見た。気づかないあいだに、口元がわずかに緩んでいる。それが妙に、こそばゆかった。
紡は、無意識のうちに、ネクタイの結び目に指を入れて、ゆっくりと、緩めた。
六月の下旬になると、毎日しとしと雨が降り続くようになった。鬱陶しい雨も、好きな人と一緒なら気にならない。 先日、紡の母から電話がかかってきた。例の定期連絡だ。「元気にしているのか」と、毎回同じことを心配してくれる。大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいのに。 そう思いながら、ふと、もう何年も実家に帰っていないことに気づいた。電話の声を聞くたび、少しだけ胸がちくりとする。「お母さん、なんて?」 朔也が、隣からのぞき込んでくる。「いや、別に。いつもの定期連絡。元気にしてるのか、って」「そっか。実家には帰ってないの?」「ここ数年、帰ってないかな……」「じゃあ、帰れば?」「え?」「お母さん、さみしいんじゃないの?」 確かに、そうかもしれない。電話のたびに、同じことばかり聞かれる。元気なの? 仕事は順調? 顔を直接見れば、親ならすぐにわかることばかりだ。それでも電話で確かめるしかないのは、紡が帰らないからだ。「そ……っか」 だからといって、わざわざ帰りたいとも思えなかった。実家には、まだ言えていないことが多すぎる。「なあ。俺と一緒に、地元に行こうよ」「は?」「久しぶりに、高校とか見てみたくねえ?」 朔也との思い出の地を、ふたりで巡ろうということだろうか。実家には数年帰っていないし、高校なんて卒業以来だ。「そう……だな」「そのついでに、実家に寄ればいいじゃん」「あ……」 「ついで」と言ったけれど、本当は、紡が実家に帰りやすいように気を遣ってくれたのだ。なんでもないふりをして、いちばん大事なところをそっと後押ししてくれる。朔也は、いつもそうだ。「じゃあ、朔也も俺の家に来てよ」「俺?」「……うん。大事な人を、紹介したい。でも――」 紡は、思
六月も中旬になり、鬱陶しい天気が続くようになった。部屋の中は湿気が高くジメジメしている。けれど好きな人といればそんなことすら、気にならないから不思議だ。 もうすっかり朔也の部屋に入り浸ってしまい、この部屋が元から紡の部屋だったのではないかと思えるほどだった。朔也が使っていいと言ってくれたチェストの一番下の引き出しは、紡の服でパンパンになっていた。申し訳ないと思いながらも、チェストの上にも服を積んでいた。収納用のボックスを買おうかとも思ったが、紡は居候の身だ。そんなことはできるはずもなかった。 クローゼットの前でぼんやりしていると、後ろから朔也が声をかけてきた。「紡のもの、増えたな」「……うん。ごめん。つい、甘えていっぱい持ってちゃって」「いいんじゃねえか?」「なにが?」 朔也は一瞬目を泳がせたが、紡を見つめた。耳の端がほんのりと赤くなっている。「……もう、一緒に住んじまったら? そのほうが早くねえか?」 そっけなくそう言うが、朔也の目は真剣だった。 冗談で言っているわけではない。そんなことぐらい、鈍感な紡でもわかった。 紡は息をのんだ。朔也からそんな提案を受けるとは思っていなかったからだ。 この部屋に入り浸るようになってから、ずっとここにいられればいいなと思っていた。けれど、朔也には朔也の生活がある。ひとりになりたいときもあるはずだと思っていた。だから、紡からは「ここにずっといたい」とは言えなかった。 目の奥がじんと熱くなる。 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、朔也のほうから差し出してくれた。それがどうしようもなく、うれしかった。「うん、早い! 朔也とずっと一緒にいたい!」 思わず朔也の首に飛びつくと、やさしく受け止めてくれた。「……そうか」 朔也は体の力が抜けたようだった。そのひと言を伝えるだけで、緊張していたのだろうか。 そういえば、もうすぐ契約の更新だった。「俺、この部屋にずっといていいの?」「俺が紡にいてほしいんだよ」
六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip
日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ
まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ
眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって
あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振
キックオフの当日、紡はいつもより一時間も早く目を覚ました。 今日からblancのプロジェクトが正式に始まる。専任としてアサインされた以上、意気込みはもちろんある。 ただ、目覚めの早さの理由は、それだけではなかった。 数日前、社内システムにキックオフの参加者リストが更新された。トキワ文具側、セントラル・アド側、両社の名前が並んだ表を、紡はなにげなく開いた。 そこに、見慣れた名前があった。 セントラル・アド株式会社 営業三部二課 有馬朔也。 息が、詰まった。「…&h
月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。 あくびをひとつして、ベッドを出た。 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。
マンションのドアを開けると、見慣れた部屋が目に入った。 壁のスイッチを押して灯りをつける。寝室に向かい、鞄をデスクに置く。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら洗面所へ行く。手を洗って、うがいをする。 毎日、変わらない動作だった。同じ順番で、同じ時間に、同じ手順を繰り返している。十年前にはこんな生活を想像もしていなかったし、十年後も、たぶん、同じことを続けているのだろう、と紡は思う。 会社へ行って、残業して、帰って、寝る。それだけが繰り返される、波のない日々。 そこに今月、ふたつの大きなことがあった。仕事で大型のプロジェ